Q7

■再生医療と私たちの価値観(身体や生命、病、健康についての)との関わり

再生医療技術により、脳死臓器移植をしなくて済むならば、人の死に対する考え方にどんな影響があるか?

【アジェンダ】

再生医療の発展と「人の死」との関係についての質問です。
かつて臓器移植を促進するために「脳死」の概念が導入されたとき、その判定基準をめぐり、「何をもって人の死とするか」が激しく議論されました。たとえば心臓移植をする場合には、心臓死よりも早い段階で摘出したほうが移植の成功率が高くなるため、1997年に成立した臓器移植法では、心臓死より早い脳死の段階を「人の死」とすることになりました。しかし法案作成では、心臓死を「人の死」とする伝統的な考え方を維持すべきだという主張もなされ、今もこの考え方の対立は続いています。
もし、再生医療技術を用いて人工の臓器を作ることができるようになり、脳死臓器移植をしなくても済むようになったならば、人の死に対する考え方にどのような影響があると思いますか。

【ひとつ選択】

  1. 特に影響はない。
  2. 脳死についての議論に影響を与える。
  3. 脳死に限らず人の死に対する考え方に影響を与える。
  4. わからない。
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No.060

私が一番重要だと思うこと:

臓器移植が不必要になった時、これまでの「脳死」、及び、「死」そのものに関する概念はどう考えるべきか。

理由:ついこの間、子どもの脳死をどう取り扱うのかが議論されていましたが、"再生医療"となるとその議論そのものがふりだしに戻ったということになると思います。そういうことから、今まさに「再生医療」「臓器移植」のあり方について考え直す機会だと思いました。 あと...私の友人に筋ジストロフィーを患っている子がいます。確実に残り少なくなっている命を、家族、周囲の人々が必死で支えています。再生医療について様々な不安要素が大きくクローズアップされていますが、もう少しメリットについてもアピールしていくべきではないでしょうか。

No.077

私が一番重要だと思うこと:

「移植」が必要なくなると、「脳死」という定義に疑問が生じるのではないか。

理由:以前、祖母が植物状態になった時、「おばあちゃんは、動かないけど、まだ生きてるよ。」と母は言っていました。しかし、脳死の定義が前日変わり、あの時の祖母が今、あの状態なら、果たして「生きている」と言えたかどうか疑問です。「死」の定義が変わるのは「臓器移植」が存在しているからで、もし、臓器移植がいらなくなると、そもそも死ぬということはどういうことなのか分からなくなります。根本的な問題として、徹底的に議論してほしいです。

No.079

私が一番重要だと思うこと:

再生医療によって脳死を待たなくてよい。 功績や研究のために(脳死の判断基準が今なお不安で万一)死を早める危険がなくなる。

理由:人命を法律のもとで粗末に扱わないでほしいと思うから。

No.137

私が一番重要だと思うこと:

「移植」がなくなるとそもそも今までの脳死および死の定義はどうなるのか。

理由:移植の必要がなくなれば、急患の場合等を除いてドナーは必要なくなる。脳死を死とするか否かはドナーというもののために議論されてきたのだとすれば、死の定義はうやむやになってしまう。医療の発達がなければ脳死という状態もほとんどありえなかったと思うが、患者の家族などは体だけでも生きているならと考えるかもしれないし、ドナーとして誰かの一部となり生き続ける、と考えて、それを救いとする人もいると思う。私のなかで答えが全く出そうにないので、ぜひ、このことは考えてみて頂きたい問題だと思う。